農村の良さを生かした新しい取り組み 1
(2007/03/15)


 今、豊かな自然と人情あふれるふるさとのような地域、農村や漁村が見直され、一度は住んでみたい、永住できなくてもときどきは訪れたいと思っている方が増えています。

 一方、農村や漁村では過疎化や高齢化のために、農業・漁業の担い手が減り産業として維持できなくなっています。しかし、先祖代々守り続けてきた農地は大切です。家業として続けてきた漁業が好きです。みんなで力を合わせて何とか生きる道を見つけたいと、1989年(平成元年)頃から村おこしの活動がうねりのように全国に広がりました。そして、生産物の直売所やふるさと産品づくり、郷土食のお店や体験農園や農家民宿など、地域の個性を生かした活動が展開され、農村や漁村が元気になっています。その主役は高齢者や女性たちです。


大阪にもふるさとのような農村があります
 愛子が生活改良普及員として担当していた大阪府茨木市山間部にある見山(みやま)地域(旧見山村。7集落)でも、1989年(平成元年)から都市と農村の交流活動が始まりました。
 この頃、見山地域で進められていたほ場整備が終わり、整備されたほ場の30%を越える農地で転作(米以外の野菜などをつくること)が国から求められていました。
 定年退職と同時に専業農家となって、ほ場整備事業に取り組んできたお父さんたちは70才を越え、加齢とともに卸売市場へ出荷するための野菜づくりがしんどくなってきていました。一方都市サイドからは、農業体験や農村のくらしや文化に触れたいという希望が高まってきていることを、大都市大阪に近い見山の人たちは肌で感じていたのです。

 この年、19年ぶりに再び見山地域を担当することになった愛子は、「今、見山の人たちは何を考えているのだろうか。豊かな自然と美しい農村景観を活かして都市との交流活動を進めるのは、見山の農業を守る一つの方法ではないのか」という思いに駆られて、各集落へ足を運び村の役員さんや以前の生活改善グループの役員さんなどを訪問しました。そこで自分の思いをぶつけ、見山の人たちの思いを聞いてまわったのです。
 顔を見るなり「お帰り」と言って抱きついてくれる人や、「おう、あんたかいな」と言って懐かしそうに笑顔で迎えてくれる人など、普及員というのは何とありがたい仕事かとうれしくなったものです。

 ほっぺたを真っ赤にして植木の苗畑で迎えてくれた高齢の女性は、「生産したものを卸売市場へ出荷するのが大変やから、地元で朝市ができたらいいのにと思ってますねん。応援してほしいわ」と切り出しました。愛子は「熱心な女性たちと話し合ってみてよ。私は村の役員さんたちに相談してみるから」と答えました。この女性は、生活改善グループや婦人会の元リーダーや、熱心に野菜や花づくりをしている女性たちと話し合いを始めました。

 愛子は早速、実行組合長(集落の農家組合長)さんに会い、見山地域の銭原集落で「朝市をやってみませんか」と相談を持ちかけました。「茨木市の街ん中やったら売れるやろけど、こんな山奥まで買いにきてくれまへんで」というのが最初の返事でした。「お年寄りでも一輪車で野菜を運んでこれるような、地元での朝市ができたらと思うんです」「こんなに緑いっぱいの銭原に来て、つくっておられる農家の人の手から、新鮮な農産物を買いたいと思っている街の人たちもいるんじゃないかな」とお話ししました。

 その他の集落のいろんな人とも話し合いました。上音羽集落のある専業農家の男性は話を聞きながら考え込み、しばらくしてから「都市との交流を考えるのも、一つの方法かもしれませんな」と真剣な顔で言われました。ちょうど息子さんが結婚して農業を継がれたときで、これからの農業経営の方向を考えておられたところだったのかもしれません。
 数ヵ月後、農業委員をしておられたこの方を委員長に、各種団体のリーダーの参加によって見山地区都市農村交流活動推進委員会が発足し、見山地域は都市との交流活動に向けて動き出したのです。


「埋もれた見山の宝をさぐる」取り組み、そして集落単位で始まった交流活動
  「見山の人たちが見山の良さを分かっていない」という話が推進委員会の中でたびたび出されました。
 役員会の中でも「こんな不便で、口うるさいとこはかなわん」「住宅団地でも誘致して、はよ発展させてほしいわ」「こんなとこが良いというのは、知らん人間の言うことや」「農業なんか続けてても、食べていかれへん」と悲観的な意見が多く出され、最初はリーダーもその話をじっと聞き、「そやけどこのままではどうにもならへん、がんばってるところの話を聞いてみよ」と答えるしかなかったのです。

 そこから学習がはじまりました。講師を呼んでは話を聞き、その後意見交換が夜遅くまで続きました。先進地の視察も何度となく行われ、そこで学んだことを活かして埋もれている見山の宝をさぐり、見山の良さを見直すための取り組みが進められることになったのです。

 「うずもれている見山の宝をさぐる」と題してふるさとの歴史の学習会を何回か行い、見山に生まれ育った人も知らなかったことをたくさん学びました。この学習会がきっかけとなって、もっと自分たちのふるさとを知ろうという機運が高まり、見山地域内のハイキングが何回かに分けて行われました。

 男性も女性も、子供から借りた運動靴や農作業用の長靴を履き、麦わら帽子といういでたちで、知りつくしているはずのふるさとを歩き、そのすばらしさを再発見することになったのです。
  隠れキリシタンの遺物や絶海和尚(*)の岩風呂や摩崖仏、そして、美しい棚田や行場(ぎょうば)であった岩屋などを訪ねるうちに、「見山十景」や「見山史跡十選」「見山の名木」が定められました。これら見山の宝と野菜や花壇苗の生産地や美しい集落景観などを訪ね、見山の郷を味わってもらうためのハイキングコースもできました。そして、大阪府や茨木市の協力もあって美しいパンフレットになり、街の人たちがパンフレットを持って見山を訪れるようになったのです。

 こうした取り組みと並行して、各集落の座談会に役員さんたちが参加し、都市との交流活動についての意見交換を行いました。「そんなことしても街の人間を喜ばすだけや、かえって見山が汚される」「若いもんが仕事辞めても、交流活動で食っていけるんやったら協力するけど、そんなことできるんか」と心配する意見もたくさん出されましたが、「見山の自然は子供らの時代になっても残してやりたい」「市街化するより、この環境を活かして食べていける方法はないか」などの意見も出されたのです。

 この頃からやっと、都市の人を受け入れたイベントをやってみようという意見が出始め、推進委員会の活動計画ができていきました。

 一つの集落から企画が出されると、あそこがやるならうちの集落もと次々といろいろな企画が各集落から推進委員会に持ち込まれました。集落の共同意識と集落どうしの競争意識の強さを感じたものです。

 上音羽集落では「とうもろこし狩りと農業みてあるきハイキング」と、花壇苗生産の盛んな村の環境を活かした「花の里めぐり」。下音羽集落では「枝豆のもぎとりと農村を味わうつどい」で畑の横で大鍋でゆでたエダマメを味わった後、隠れキリシタンの里でもある下音羽に残るキリシタンの遺物の見学もしました。

 また、稲刈りが終わり秋色に染まった美しい銭原では「大根祭りと青空市」を開催。大根の収穫体験をした後、とろけるような大根の煮物を食べ、村の人たちの案内で集落内をハイキング、青空市も大賑わいでした。11戸しかない小さな山里、清阪集落では「山里清阪で秋を味わうつどい」を開催しました。

 各集落の個性を生かしたイベントは訪れた人々を大喜びさせただけでなく、訪れた人たちの反応から、見山の人たちが見山のすばらしさを見直す機会になりました。銭原の「大根まつりと青空市」には200人を越える都市住民が訪れ、歓迎の挨拶に立った区長さんは、「うちの村の人口よりも多い人たちに来ていただいて、本当にうれしく思っています」と感激気味に述べられたのが印象的でした。

 このときに開いた青空市が大好評で、イベントの反省会の中で、月に1回青空市をやってみようということになり、「銭原青空市」が始まりました。そして、次の年からは毎週日曜日の定例となり現在まで続けられています。

 この「銭原青空市」から始まった農産物直売の活動も、上音羽で女性たちの活動に村の役員たちが協力して「音羽の花摘み園と朝市」が始まり、そして、下音羽で「下音羽の野菜市」ができ、それぞれの個性を生かして発展し、茨木市だけでなく千里ニュータウンや近隣の市町はもちろん、遠く大阪の南部から来てくれる人もあり、農家の生産意欲も高めていきました。

絶海中津。明に渡り、足利義満の師となる。



続く⇒