夏を楽しむ農家の暮らし
(2006/06/15)


ササユリの家と夏を楽しむ農村の家
 1965年ごろだったでしょうか。田植えが終わったのを見計らって、大阪府茨木市の山間のある農家を訪れたときのことです。
 あたりの山一面が梅雨に洗われ、湿気をいっぱいに含んだ若草色に包まれていました。少し坂道を上がって門屋をくぐり、石畳を通って母屋の土間に足を踏み入れたとき、今でも忘れることのできない美しさに出会ったのです。

 土間は、格子戸を境にかまどのある台所に入り、その向こうに裏口の戸が開け放たれて井戸端に続いていました。井戸のすぐ側まで苔や野草におおわれた山肌が迫っていて、その山肌一面にササユリが群生していたのです。
 暗い土間にくっきりと開けられた長四角のカンバスに、雨に濡れた苔などの濃い緑の中に咲くササユリは、やさしく、気高い美しさに輝いていました。
 まだまだ貧しい時代でしたが、ここに暮らす人たちの心の豊かさを感じた思い出です。

 もうひとつ、これも同じ茨木市の別の農家のお話です。梅雨も開けて夏の陽差しが強くなってきたころに、山裾に広がる集落のくねくねした坂道を上り詰めたところにある農家を訪れたときのことです。

 通されたお座敷は開け放たれ、見事に植栽された庭越しに集落を囲む山々と、遠くにかすむ京都の愛宕山まで見通せ、さわやかな風が吹き抜けていました。

 四間取りの部屋の間の襖は、葦簀を編み込んだ夏用の戸と御簾(みす)に代えられて、家全体が夏の過ごしやすさを演出しています。そこに座って景色を眺め吹き抜ける風にうたれていると、私の体がゆっくりと解き放たれ、山道を登ってきた疲れが心地よくさえ感じられたのです。

 この当時、襖で仕切られただけの四間取りの農村住宅は、若夫婦の個室もない不合理さが指摘され、住宅の改善が農家生活の改善課題になっていました。そして、若い生活改良普及員だった私も、個室が確保できない農村住宅は、農家の嫁不足や若者が都市へ出て行く原因のひとつであり、改善すべきだと考えていたのです。

 しかしこの経験は、農村住宅のゆとりと落ち着きが、合理性を追求した都市の住宅にはない豊かさをもっていること、無駄にみえるものの中にこそ、長い歴史に培われてきた暮らしの文化が息づいていることを実感させてくれたのです。

 いつのまにか、この2つの思い出は私の奥深くに住み着いて、暮らしの豊かさや何がほんとうに大切なのかを考えるときの原点になっているようです。


夏の風
 日本の夏は蒸し暑く、特に関西以西ではもっとも過ごしにくい季節です。
 この夏を少しでもさわやかに過ごすために、知恵を絞って工夫し、風が家中を吹き抜けるような農家住宅が造られたのでしょう。

 夏の間、お昼過ぎから3時ごろまでは昼寝の時間です。開け放たれた部屋や縁側で横になり、暑さの中を乗り切るために休養をとります。この時間帯に農家を訪問することは遠慮しなければいけません。

 その代わり、日が昇るのを待って田畑にでて夏草をかり、朝食までに一仕事を済ませます。朝食後も農作業をし、昼食後暑さの厳しい昼の盛りは昼寝です。気温が下がり涼風が立ち始める3時ごろから、空が夕焼けに染まるころまでたっぷり仕事をするのです。その間も疲れてくると、こびる(おやつ)を食べながら竹藪の側や木陰で休みます。

 竹藪を吹き抜けていく風の涼しさは、一度味わうと忘れられないほどの心地よさです。日が暮れかけて家に帰り、疲れた体を風呂で休め、家族そろって夕食をいただき、ホタルの飛び交う縁側で夕涼みです。すぐに、疲れた体を睡魔がおそい、開けはなった部屋に蚊帳(かや)を吊って深い眠りにつきます。
 このように、農村の暮らしは自然の厳しさも受け入れながら、その恩恵を楽しみ利用する先人たちの知恵と工夫で豊かにされてきました。

 「曽ってわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きていた そこには芸術も宗教もあった いまわれわれにはただ労働が 生存があるばかりである」(「農民芸術概論綱要」)と宮沢賢治は言っています。

 たしかに、「近代化」された暮らしの中にも豊かさがあると思います。また、農家の暮らしの中にもテレビや冷蔵庫は勿論、クーラーもビデオも入ってきて、大きな変化をもたらしたのは事実です。しかし、自然の中で営む農業がある限り、効率的に商品生産するためにつくられた工場での労働にはない融通性と人間らしさがあり、自然の美しさや豊かさ、厳しさとともにある暮らしは変わらないでしょう。


半夏生のころ
 今では、畦の草刈りを機械でするよになったため、ほとんで姿を消してしまいましたが、1970年代ごろまでは、田植えが終わると子どもたちも手伝って畦マメのタネまきをしたものです。
 棒を持った子どもたちが穴を開け、そこへおじいちゃんやおばあちゃんがタネを落として土をかぶせていきます。畦は水を張った田んぼから適当な水分と肥料分をもらえる、マメづくりには適した場所なのです。マメが膨らむ10月の末ともなると、まだ青いマメを付けた木を抜き取って、枝付きのまま塩茹でにしてもらい、おいしい枝マメが食べられるでしょう。

 早苗が根付き、畦マメのタネまきも終わると稲作農家にとってはホッとできる季節です。昔なら、田植えが終わり後片づけを済ませた7月の初めの半夏生(はんげしょう)のころに、村中で田植え休みをしました。半夏生は、夏至から11日目のことで、「ハンゲ(カラスビシャク)の生えるころ」という意味で、今年は7月2日になります。

 このころまでに田植えをしないとよい収穫が見込めないことから、大阪では「はげっしょ」といって、田植え休みの代名詞のように使われてきた言葉です。

 この日には、収穫したばかりの小麦を石臼で搗いて粉にし、「はげっしょ団子」をつくりました。漂白していない赤味を帯びた小麦粉でつくった団子を、片手で握ってきな粉をまぶすと、赤い猫が寝そべっている姿に似ていたため、河内地方では「あかねこ」とも呼ばれていました。今でもこの時期になると、村の中の食品店には白い小麦粉でつくった「はげっしょ団子」が並べられます。

 また、稲がよくはらむようにと、アズキやソラマメ、エンドウなどの餡をたっぷり入れた「はらみ団子」をつくる地方もありります。


夏の祭りと鯖ずし
 田植え休みが終わるといそがしい夏仕事が待っていました。昔は、湯水のように沸いた田んぼを這い回る草取りが一番つらい仕事でしたが、今はずいぶん楽になりました。

 大阪の北摂地方では7月15日が夏まつりです。農村地域では収穫の季節、秋にお祭りをする所が多いのですが、大阪の二大祭り、天神祭りや住吉神社の祭りが夏に行われるので、農村でも夏祭りが定着したのでしょうか。

 茨木市見山(みやま)地域でも、7月15日に夏祭りが行われてきました。日が落ちて暗くなると、各家から長い竹にぶら下げた祭り提灯を高くかかげた人たちが氏神様に向かって集まってきます。

 各家を出た提灯の明かりが行列になって各谷筋(たにすじ)から神社に向かうのです。山裾に点在する6つの集落で、それぞれの集落の神社に向かう提灯行列が一斉に繰り広げられます。漆黒の中を提灯の明かりが列をなして神社に向かうとき、森羅万象に宿る神々への祈りが頂点に達し幽幻の世界をつくりだします。人々が神社に集まると、郷土芸能保存会の人たちを中心に伊勢音頭が歌われ、夜を徹して宴会が続きます。

 このとき必ずつくられるのが「鯖ずし」です。三枚に下ろした塩鯖を昆布を敷いて生酢に漬け込みます。餅米を少し混ぜてご飯を炊いてすし飯をつくります。2合分ほどのすし飯を竹の皮の上にのせて長四角に形づくり、その上に酢に漬けておいた鯖の片身をのせ、しっかりと竹の皮で包んで四角い木箱に詰めて重石(おもし)をのせ、一晩おいて味をなじませるのです。この「鯖ずし」は、この地に生まれ育った人たちには忘れられない郷土の味です。

 農産物直売所をつくる話が持ち上がったとき、「鯖ずし」を食べさせる茶店もつくりたいという女性たちの思いが高まりました。この思いは男性たちの支持も得て実現し、今では農産物直売所「見山の郷」の名物になっています。

 暑い盛りに農園で、汗をしたたらせながら作業をしていると、「立っているだけでもふらつくよう炎天下で、青田のよくなるのを楽しみに湯水の中を這い回って草取りをする。……ちょっとした木陰に入り一息入れるとき、青田の葉先をなびかせて吹く風には、まるで極楽のような思いがする」(「わがふる里 暮らしと味」寝屋川市生活改善クラブ連合会)という農家女性の思いの深さと、自然の豊かさへの感謝の心を味わうことができます。