笹井宏之歌集『ひとさらい』を読む。

(2008年1月:BookPark/1260円)


笹井宏之の歌集『ひとさらい』を批評する言葉を私はなかなか見つけることができなかった。
確かに笹井短歌の特徴には、意外性のある言葉同士の融合による言葉の意味に対する脱コード化の魅力がある。また笹井は短歌という定型詩の内部で脱コード化を行うことの可能性と限界に無頓着な側面を併せ持っている。つまり、笹井の創作は意味の脱コード化が短歌の詩型の機能と相乗的に効果を表す場合と、短歌が意味の脱コード化を行うトポスにすぎない場合の二種類に分けることができる。そして後者の例がこの歌集にはかなり見られる。


 表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道を漂うやかん

 星が甘いのを知っている私たちの頭上で出産しはじめる獅子

 爆竹で月へゆこうとする人に新五百円玉あげました


私はこれらのテクストをナンセンスな言葉遊びだとは思っていない。むしろ、短歌として読もうとするからこそ、そこに短歌としての意味を見いだすことができないのである。この三首の言葉の意外な組み合わせは、詩型の機能を視野に入れた上での、「詩」に向けた意味の脱コード化の意識に欠けている。つまり読者への「読み」の負荷のかけ方が、詩的創造性に基づくものから逸れているのである。
よって、これらのテクストの場合は、一行詩として読むこともできない。

では、次のテクストの場合はどうだろうか。


 クレーンの操縦席でいっせいに息を引き取る線香花火

 市民プールを浄化しながらこおろぎの尻尾を抜いて遊ぶ天使ら

 フライパンになりませんかときいてくる獅子座生まれの秋田うまれの


この三首も短歌として評価することにためらいを持つ。意味の脱コード化が詩型の機能と有機的に作用していると言うよりも、意外な言葉を組み合わせる器として短歌を利用しているようにしか思えない。これらのテクストは構造的に「詩」として創造されないまま読者に委ねられている。

「詩」が創造されるには意外な言葉の組み合わせと、その言葉の組み合わせを有機的に生かす「詩」の構造的な必然性が融合していなければならない。

私は笹井のすぐれた詩質を少しも疑ってはいない。詩質に恵まれた笹井の歌を読みながら、改めて詩的に意味が脱コード化された短歌を創造することの困難に慄然としているのである。

笹井の才能はむしろリリカルな傷付きやすい神経の震えが内包された次のような歌に遺憾なく発揮されている。


 しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだろう

 蛾になって昼間の壁に眠りたい 長い刃物のような一日

 内臓のひとつが桃であることのかなしみ抱いて一夜を明かす

 レシートの端っこかじる音だけでオーケストラを作る計画

 それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした


これらのテクストは笹井の詩質が短歌の生理と融合し、見事に昇華したすぐれた歌である。

短歌という詩型の機能と笹井の詩質が親和性を保ちつつ意味の脱コード化が内在化されるとき、笹井の歌はオリジナルな「詩」の世界として達成される。


09/01/19 up
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