「対談 穂村弘と語る『ひとさらい』と
現代短歌」を読む。


「新彗星」第2号の穂村弘と加藤治郎による対談は考えさせられる内容が詰まっている。特に穂村と加藤の認識の差異は興味深く、二人が見解を異にする部分に注目することで、現代短歌に関するアクチュアルな問題が生な形で表出する。しかし、この点は穂村を中心とした対談ということもあり、加藤はやや遠慮した態度に終始しており議論に至ることはない。ある意味この対談で先送りされた問題が今後どのような展開を見せるのかが私には最も関心がある。

例えば、笹井宏之を評価する加藤が、斉藤斎藤や宇都宮敦、中田有里の歌をよくわかっているとは言い難いというとき、加藤がそこから先にこの問題を煮詰めていこうとしなかったのは残念である。加藤が名前を挙げた歌人の中で斉藤斎藤は、本誌の特集「修辞の死/再生を巡って」で論じられている中心歌人であり、加藤が笹井に感じるようなシンパシーを斉藤斎藤に感じないのならば、まさにその点を議論することがこの特集のテーマに直結したはずである。

また、近代短歌と現代短歌の問題もここから論じられていくべきだろう。笹井や斉藤斎藤の歌を近代短歌の最終的な閉塞状況に生まれたものとする穂村の認識を、加藤はそのまますんなりと受け入れたのだろうか。短歌以前に「やっぱり今は近代なんだって思うんですよね。」とあっさりと発言する穂村に対して、加藤が違和感を持たなかったとはとても思えない。

表現の問題に立脚した場合、私たちはポスト・モダン以前に帰ることはできない。私たちに残されている選択肢はそれほど多いわけではない。あえてネガティブなもの言いをすれば、カノンを信奉しつつ退嬰を隠蔽した過去への表層的な回帰か。自己愛の延長線上に見いだされる「他者」に向けた言葉に淫する自己肯定的な態度か。自己の歌を信じながらポスト・モダンそのものがないかのように振る舞うか。あるいは、システムからの逸脱を偽装することにより自己そのものがそこから免れているという楽天的な快楽に耽るか。短歌の「理想」を夢想し、ひたすらストイックな表現を目指すか。自己の可能性に基づく否定の前進性をどこまでも信じるかである。

現代の短歌を評価する評価軸の多様化は避けがたい。先のようにネガティブなもの言いをしたところで、そのこと自体をポジティブな方向性に反転することも可能である。テクストが内在する意味の自己への引きつけ方と解釈によって、自ずから導き出される答えは違ってくる。よって、今も「近代」であるという認識から求められる評価軸では、現代の短歌は計りがたいものである。

誰のためのどのようなリアリティーかが問われずして、テクストの評価はなし得ない。そのような事態にあって、近代短歌の評価軸がどこまで有効で、どこから無効なのか、はっきりとさせるべき時に来ていると思われる。それなくして、現代の若者の歌をテクストに合わせて論じていても本質的な問題の先送りにしかならないだろう。

穂村の短歌に対する説明は、加藤治郎も高く評価するように分かりやすく切れ味も鋭い。誰もが解説に窮していたいわゆるポスト・ニューウェーブ短歌を見事に分析し、短歌の本質を分かりやすく解説した。『短歌の友人』は稀にみるすぐれた評論集である。この評論集が歌壇の外部から正当に評価されたことは痛快でありとても喜ばしい。

しかし、一見誰もが納得できる分かりやすい解説が、納得できる答えをバランスよく形成するときに何かが欠落することがある。私は穂村があくまでも近代短歌を基準にして「現代」の短歌を問うことにある危惧を禁じ得ない。最終的に「現代」の短歌が近代短歌の価値観に回収されるのならば、穂村弘という希有な存在の意味はいったい何なのだろうかと思ってしまう。

穂村がこの対談で言った「やっぱり今は近代なんだって思うんですよね。」という言葉をそのまま読み過ごすことのできる歌人は誰もいないのではないか。穂村の歌や評論が今後どのような方向性を持つのか、様々なことを考えさせられる対談であった。



09/01/05 up
09/01/06 pm2改訂
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