岡井隆詩集『限られた時のための
四十四の機会詩 他』を読む、その4。
(2008年3月:思潮社/2940円)
>『神の仕事場』に続く岡井隆の第16歌集『夢と同じもの』は暗い歌集である。この歌集には1994年5月から95年9月までの歌が収められている。前歌集に引き続き実験的な歌が散見されるが、虚無感が臨界点に達したような作品を見出すことができる。
>岡井の「自筆年譜」によると、1994年は「子供たちが受験期にさしかかったことを中心に、きびしい事どもが生起して、しばしば絶望的になった」とあり、『夢と同じもの』が「この時期のわたしの感情と生活の表白としてのこっている」と記されている。
>また、翌95年1月には阪神淡路大震災とオウム真理教事件があり、さらに景気の低迷など、岡井の私的な状況と社会の逼迫した情勢はまるでリンクするようにこの歌集に影を落とす。
ザンクト・ペテルスブルグの闇に斧を振るラスコリニコフこよひわが友 |
吾を指して言語酸鼻をきはむれど応へは紅葉だけだつたのだ |
「部屋のうた」 |
しばししてわれ自らを宥すなり誰もみてない時だけ拍手 |
「私生活/絵詞のうち」 |
〈立ち去るとは、少し死ぬこと。〉『さようならの事典』 |
音立つる記憶の河の幾条のいふといへども涸るる日が死 |
「異本の谷へ」 |
>この歌集の扉には『テンペスト』の次の言葉が引用されている。
われわれ人間は/夢と同じもので織りなされている
はかない一生の/仕上げをするのはゆめなのだ
シェイクスピア『テンペスト』(小田島雄志訳)
>この言葉がこの歌集のモチーフを象徴的に語っているとまでは言えないだろう。むしろ『テンペスト』がハッピーエンドな終わり方をしているのに比して、醒めた視線を秘めていることの方が意識される。
>岡井は絶望的な状況にあるとき、その絶望に向けて旺盛な創作欲を発揮する。まるで岡井の創作家としての本質に主体的に絶望や危機を引き寄せ、それを詩的に昇華する何かがあるようである。
>『夢と同じもの』に『テンペスト』のようなどこか醒めた視線があるとするならば、それはまず自分に向けられているものだ。そして岡井の歌を被っている虚無的な陰影とはあくまでも当時の創作姿勢から作品に還元されたものである。この歌集に衰えを知らない実験的な試みがなされているのは、そのような岡井の創作姿勢が反映している。その意味では岡井の絶望や危機意識は、内容や性格の違いこそあれ、常に創作と併走しつつ存在する。それは過去から現在まで変わることのない岡井の基本的な創作姿勢である。もちろんそこには年齢と共に濃厚になる「老い」と「死」の問題が避けがたく加わっていく。
>第26歌集『家常茶飯』に次のような歌がある。
「不可能であると世間で言はれてゐること以外はする価値がない。」(オスカー・ワイルド) |
層々と若き家族らの住む上に滅ぶべき詩をもてあそび棲む |
>この歌が表出しているのは短歌創作への激しい使命感と自負心であり、言葉の調子から感受される些か自嘲的なニュアンスはポーズにすぎない。危機的状況の中で不可能なことを可能にしようとする努力が短歌という「詩」に向けられる。その創作に対する凄まじい意識はゾッとするほどの畏怖を感じさせる。岡井の歌集を読んでいると突然グロテスクなまでの虚無感に襲われることがある。が、それはまさに岡井の激しい使命感と自負心を負った創作意識が歌の内部から露出した瞬間である。岡井の絶望や危機意識は短歌創作への糧となり、激しい使命感と自負心に変容する。
>岡井の歌にはそのような要素がどの歌にも内包されている。そしてこの歌の場合はそのような使命感と自負心が歌の内部に胚胎されるのではなく、モチーフとして表出されているということである。
>さて、「厄除けのための短章」と『夢と同じもの』に話を戻そう。
>「厄除けのための短章」から短い詩を2編引用する。
神の指 |
>岡井がこれらの詩を書くときの姿勢には、短歌の創作に見られるような使命感や自負心から解放されている心やすさがある。この2編の詩は平易な語り口でありながら、言葉に奥行があり、一つ一つの詩句は味わい深い。「神の指」に感受される願い、「風の力で」に込められた祈り、私はこの2編の詩がすぐれたものであるという判断をためらわない。
>これらの詩には『夢と同じもの』に見られた暗い影はなく、むしろ絶望からの慰藉を求めて創られているようである。
>しかし「厄除けのための短章」以前に創られ、歌集の内部に組み込まれた詩は、この2編の詩に見られるような解放感や心やすさからは遠い。なぜならそのような詩に第一に要求されるものは、歌集の一部としての構造的な詩的完成度であり、短歌と詩の実験的なコラボレーションの成否である。
>その意味ではそれらの詩は、歌集という磁場から切断された時点で創作されたときの意図を詩の内部に内在させつつも、まったく別の性格を帯びた作品になっている。また短歌との構造的な関係性の内部で創られたがゆえに現代詩への意識を表出する。
>それに対して「厄除けのための短章」は短歌や現代詩をまったく意識することなく創られている。短歌から解放され、現代詩を意識しないで詩を創作するときの岡井はむしろ楽しげである。
>『夢と同じもの』と「厄除けのための短章」の短歌と詩の求めるものが逆転現象をもたらしているわけではないだろう。それらは、比較すること自体を無効にするほど創作の意味そのものを異質にしている。「厄除けのための短章」は短歌と現代詩の呪縛から初めて解放された岡井の純粋詩として読まれるべきである。
>そして『限られた時のための四十四の機会詩 他』はその延長線上に位置する。
>次回は『限られた時のための四十四の機会詩 他』を中心に論じながら、この文章をまとめてみたい。
08/06/16 up
08/06/16 am1130改訂
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