永井祐第一歌集
『日本の中でたのしく暮らす』を読む、その1。
>東郷雄二が「橄欖追放」にすぐれた永井祐論を発表している。東郷は京都大学大学院教授であり専攻分野は、言語学、フランス語学である。短歌の読みに対するすぐれた純粋読者として、これまで数多くの歌集を論じており、その成果は東郷のホームページ上の「今週の短歌」と「橄欖追放」に記録されている。これまで東郷の短歌批評によって教えられたことは多く、あるいは、東郷なくしては説明が付かないままで放って置かれた問題も少なくなかったと思われる。
>東郷は短歌創作者ではないので、歌人間の利害関係には無縁であり、テクストへの向き合い方に余計なものが介在していない。その点も含め、短歌の純粋な読み手として東郷への信頼は厚く、その批評は歌人の間でも一目置かれている。
>歌人の中には短歌を創作しない者には、短歌の本当の良さは分からないと公言する者もいる。私に言わせれば、歌人にしか本当の良さが分からないような短歌は、文学や芸術に開かれたものではなく、歌人の読みの恩恵を頼るしかない狭隘なテクストにしか思われない。たとえ短歌を創作していなくとも、他ジャンルですぐれた仕事をしている人の見る目を侮ることはできない。何らの根拠もなくそのような読者を否定しては、かえって自己の創作に対する劣等感を披瀝しているように勘ぐられても仕方がないのではないか。
>確かに、短歌表現の微妙な機微や、助辞の使い方など専門歌人でなければ分からないこともあるかもしれない。しかし、その歌人たちの間でも歌に関する読みは一様ではなく、その読みの違いが歌の世界の豊かさを保証し担保する場合も少なくない。短歌は創作者のものでも一読者のものでもなく、創作者を含めた読者すべてのものである。
>さて、東郷の永井論をここで詳細に語ることは控えたいと思う。ただし、私が書こうとすることに関わると思われる点については触れておきたい。
>東郷は永井の歌の特徴として動詞の多用化とその連接を分析する。時間的展開を意味の中核とする動詞の性質に着目しながら、永井の歌が日々を暮らす私たちの基本的経験である「流れる時間の中を生きている〈私〉」を表現していることを指摘するのである。これは動詞の多用化を忌避し、叙景を「一幅の絵のように定着する」、短歌表現における無時間性の不自然さを、永井が嫌ったところから用いられた技法ではないかという。見得を切るような決めポーズや「ドヤ顔」が、ゼロ年代歌人の等身大の「リアル」と相容れないからだというのである。
>また、それに付随して「知的再構築による因果の否定」があるという。再構築され知的処理を施された世界は、その時点で「私」が生きた世界ではなく、「今を生きる〈私〉のリアル」を表現することを希求する永井には相容れないというのだ。
>そして、永井の多くの歌には、修辞に関する微妙な歪みが施されているが、これも永井が「今を生きる〈私〉のリアル」を表現するための工夫であり、「永井の歌は『棒立ち』などではなく、周到に作り込まれた歌」であると考察している。「その修辞のめざしているものが、近代短歌のセオリーとは方向が異なっているというだけだ」というのが東郷の分析の結果である。
>私は東郷の分析をその論旨に沿って読む限り、この考察は正しいのではないかと思う。永井の歌に関して、このような方向から分析を行った歌人が、これまでにいたのかどうかは分からないが、いずれにしても、永井短歌の本質に関わる極めて重要な指摘である。
>東郷はその論の最後を次の言葉で締め括っている。「それにしてもそんなに有効射程の短いリアルでよいのかという疑問は残るだろう。その疑問に答えることができるのは作者だけしかいるまい。」この言葉を含めて、永井は東郷という貴重な純粋読者を得たということではないだろうか。歌人ではない東郷が、このようなすぐれた短歌批評を行うことを、歌人たちは重く受けとめるべきである。
>私はこれから永井の短歌を永井的主体と言葉のヒエラルキーという観点から考察したいと思っているが、それに関わる分析としても、東郷の考察はとても示唆に富むものである。
>私が永井の短歌を初めて意識的に読んだのは、未来短歌会の加藤治郎に師事する若い歌人たちが中心になって行った横浜開港歌会の席上であった。永井もその歌会に出席しており、そこで初めて永井に会ったのだが、そのときに提出されたのは次の歌である。
雲が寒くてつめたいゆれるうごかない 駐車場で見つける鳥居の絵 |
>『日本の中でたのしく暮らす』にも収載されているので、本人としても納得している歌なのだろう。その他にもう一首提出されていたように思うのだが、今はこの歌しか思い出せない。私は当時この歌の成否に関して判断を保留したことを記憶している。また、その歌会に居た若い歌人たちの話を聞いても、納得がいくところまでには至らなかった。ただ、若い歌人たちにとって、永井が特別な存在であることだけは感受された。
>この歌について、今改めて読み直してみると、先の東郷の分析が見事に当てはまるように思われる。この歌にも、動詞(形容詞)の多用化とその連接により、知的再構築による因果の否定が行われ、「今を生きる〈私〉のリアル」を表現するための工夫として、修辞に関する微妙な歪みが施されている。
>私が当時この歌の成否の判断を保留したのは、上句と下句に有機的な関係性を見いだすことができず、一首としての世界が曖昧なまま、その歌の気分だけを味わったからだと思われる。この歌の意味的なレベルから、歌の世界の淋しい情景を身体性や内面にまで還元して読むことは無理ではない。また、やや強引ではあるが、上句と下句の表現を結びつけて象徴的な世界として味わうことも可能だろう。あるいは、その歌の象徴性が従来の短歌とは異質であり、稀薄な言葉の関係性による世界の構築として、それを永井的な世界として認識することも可能であるかもしれない。しかし、仮にそのような判断をしながら読んだとしても、私はこの歌の成否を保留したのではないかと思われる。
>東郷の分析をこの歌に当てはめると、私が疑問に思っていたことは解消し、成否に関する保留も解けてゆく。だが、私が真の納得に到るためには、永井短歌の本質を自分の言葉によって説明できなければならない。永井的主体と言葉のヒエラルキーという観点は、言わば、私が永井の歌を読み解くときに自己を納得させるために考えたものである。
>次に『日本の中でたのしく暮らす』の前半部分(23ページまで)の中から、(A)、(B)、(C)の3つの歌を示したい。
(A) |
思い出を持たないうさぎにかけてやるトマトジュースをしぶきを立てて |
目を閉じたときより暗い暗闇で>後頭部が濡れてるような感じ |
終電のホームにあった水飲み場>足のぴりぴり星のぴりぴり |
寒空の吹けないはずの口笛の>AV男優と女優の結婚 |
昼過ぎの居間に一人で座ってて持つと意外に軽かったみかん |
山手線とめる春雷>30才になれなかった者たちへスマイル |
(B) |
次の駅で降りて便所で自慰しよう清らかな僕の心のために |
昨夜みた映画の中に外人が罪悪感にふるえるシーン |
半そでのシャツの上からコート着てすきとおる冬の歩道を歩く |
ラジカセがここにあるけどこわれてるそして十二月が終わりそう |
腹に手を当てるUFOキャッチャーが少しも楽しくない夕まぐれ |
春雨は窓を打ちつつこの本に何かがきっと書かれるだろう |
(C) |
なついた猫にやるものがない>垂直の日射しがまぶたに当たって熱い |
太陽がつくる自分の影と二人本当に飲むいちご牛乳 |
新しく宗教やろう爆風で屋根が外れた体育館から |
スキー板持ってる人も酔って目を閉じてる人も月夜の電車 |
バスタブに座って九九を覚えてる>遠くにデルタブルースきこえる |
五円玉>夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう |
>(A)は、永井的主体や言葉のヒエラルキーという視点を考慮するまでもなく、印象に残りよいと思った歌。(B)は、永井的主体や言葉のヒエラルキーという視点を考慮しても、あまり成功しているとは思えなかった歌。(C)は、永井的主体や言葉のヒエラルキーという視点を考慮した上で、よい歌として納得できた歌。実はその他にもはっきりとは分類できない歌があり、(A)と(C)のどちらに入れてもよい歌もある。
>さて、このように分類した上で、永井的主体と言葉のヒエラルキーについて論じてゆきたいのだが、その詳細については次回に書くこととする。
13/04/04 up
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