彌榮浩樹の評論
「1%の俳句― 一挙性・露呈性・写生」を読む。


「1%の俳句―― 一挙性・露呈性・写生」は、第五十四回群像新人文学賞評論部門の当選作である。俳句評論が群像評論賞に当選したということは、この賞に関するこれまでの歴史を考えれば、極めて画期的なことであることは、誰の目にも明らかであろう。因みに短歌評論では、今までに一度だけ、上田三四二が第四回に「斎藤茂吉論」によって受賞している。

これまで俳句評論が、この賞にどれだけ応募されたのかは分からないが、この度の彌榮の受賞により、俳壇という閉鎖空間から一般的な文学ステージに向けて、俳句評論が盛んに書かれることが期待される。ただし、その評論が評価される場が、専門的な俳壇ではなく、一般的な文学ステージであることの自覚のない者には、たとえ、自己の俳句観に基づき専門性の高い評論を書いたとしても、おそらく賞の栄誉に浴することはないだろう。

彌榮の評論を読んでまず感じることは、この評論が賞を受けるべくして受けたという印象が強いことである。この評論は一般的な文学ステージに向け、何をどのように書けば、賞に値するものになるのかがよく練られており、俳句の素人が読んでも理解できるように平易な言葉で書かれている。

彌榮は自己の俳句観に基づいて選出した1%の俳句のみを対象として、俳句のすぐれた固有性を論証する作品として特化する。いや、1%の俳句のみが、本当に俳句という名に値するすぐれた文学作品であることを示そうとするのである。しかし、それは芸術至上主義的な立場から論じようとするものではない。例示された俳句は、むしろ私たちに身近なものである。

彌榮の例示した五句を次に引用したい。


鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
 
遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子
 
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
 
甘草の芽のとびゝゝのひとならび 高野素十
 
階段が無くて海鼠の日暮かな 橋 ■石
(■は門がまえに月。はしかんせき)



最後の■石の句以外は、一度くらいは中学の教科書でもお目にかかる、それぞれの俳人を代表する有名な「写生」句ばかりである。彌榮はこれらの句を素材にし、「一挙性・露呈性・写生」という三つのキーワードを中心にして、俳句が内在する性質の相互の関係性に軸足を置いた論証を進める。そして、後半に「写生」の正体の追求に焦点を絞りつつ、ネルソン・グッドマンの『世界制作の方法』を援用して持論をまとめるのである。この構成は実に分かりやすく、それほど俳句に詳しくない者でも、すぐれた俳句の固有性を理解できたような気持ちにさせられるものだ。少なくとも賞に応募する限りは、賞の受賞が目的であり、その意味では、この評論の論証の仕方は成功していると認めざるを得ない手際の良さがある。

その上で、この評論が本当にすぐれた俳句を選出し、その本質を論証し得ているのかどうかは、また、別の問題である。ある方向からの見方によれば、導き出される答えが、初めから前提としてあり、その答えに合わせた俳句の選定が行われているように思えなくもない。また、俳句の固有の性格を、グッドマンのヴァージョン論につなげることが、恣意的な予定調和に見えてくる。(ただし、それはアイデアとしては成功している。)さらに、彌榮の俳句観そのものに疑問を呈する向きもあるだろう。

俳句のさまざまな性質、「季語」「切れ」「五七五の3D構造」「和歌の切断という出自」「俳言」「切れ字」「空間」「時間」、さらには「写生」についての総体的な彌榮の説明を首肯するためには、彌榮との俳句観の共有がある程度担保されていなければ無理がある。その意味では、この評論は、俳句にまったくの素人であるか、彌榮との問題意識の共有がある俳人にはとても有効な論であり、彌榮と俳句観を異にする俳人にとっては、暴論に見えるものかもしれない。その要素は、この評論の冒頭から胚胎している。

彌榮は先の五句を例示した後に、次のように評論の目的を記している。


この小論で明らかにしたいのは、先鋭な文藝形式としての俳句の固有の性質についてである。最先端の世界文学・詩型としての俳句性の核とは何かの探究である。ただし、それは、ことさら前衛的な実験的な俳句について語ることでは全くない。もちろん、真に優れた文藝作品であるならば、そこには本質的意味での前衛性、実験精神、難解さは必ずある。謎のない一流の藝術作品など存在しないはずだ。しかし、そのことと、ことさら前衛・実験的な方向へ走ることとはまったく別である。俳句においては、数々のルールを破り実験的な作品をつくることは、実は、たやすい。しかし、俳句とは、わずか十七音に課せられたすべてのルールを無理に満たすところにその醍醐味が現れる。そんな文藝形式なのだ。短歌との違いも、音数の少なさという量的な違いだけではなく、数々のルールの縛りが輻輳しているための言語表現の質的歪みにある。こうした俳句の固有性を前提にすれば、真に前衛的な実験的な俳句とは、ルールからの逸脱にではなく、あらゆるルールを引き受けて実現しようという伝統の遵守にこそある、というのが僕の立場である。この小論は、前掲した五句を中心に考察しながら、今まで語られてこなかった俳句の深淵を明らかにしよう、そんな目的を持っている。つまり、圧倒的多数の99%の大衆文学的俳句作品によって蔽い隠された1%の俳句の核の追究、それがこの小論の目的である。



この部分を読んですんなりと納得できる者と納得できない者で、この評論の意味はまったく別の性格を帯びる。これは説明するまでもないだろう。では、私はどうかというと、納得できない者の一人であるが、彌榮がこの評論で証明しようとしたことについて異議を唱えるつもりはない。俳句の「写生」の正体ということに焦点を絞り、これまでの「写生」論を検討しながら持論をまとめている方向性は首肯したい。ただし、その結論に対して首肯するつもりはない。

「写生」の正体を、グッドマンのヴァージョン論に結びつける発想は、ある程度は成功しているが、それによって「写生」の正体が証明されたとは到底受け取ることができない。この点は、グッドマンのヴァージョンという考えが、「もの」そのものの否定、つまり、反カント的な立場から発想されたものであることにも関係している。俳句の「写生」が、存在学と言語表現の根本問題に抵触することなく、あっさりとグッドマンのヴァージョン論に結びつけられて終わるものであるのならば、この問題は私にとってさして興味の湧くものではなくなる。しかし、そのようにすんなりと証明できないがゆえに、「写生」は永遠のテーマになり得るし、俳句創作における目標であり続ける。

また、彌榮が例示した1%の俳句としての五句が、「写生」の名の下に同列に並べられていることに対しても、その違和感を最後まで払拭することができなかった。「写生」の正体を論証するためには、これら五句の個別の分析が地道に行われ、文学として優れていることがそれぞれに証明されなければならない。「写生」の正体を突き止めるには、愚直とも言える個々のテクストに対する分析が要求されるだろう。その意味では、彌榮がこの評論で行ったことは、俳句の「写生」の正体を、表現の一般性に基づき、いかに鮮やかに切り取って見せるかというその手つきにあったとも言える。そして、その切り口に説得性があり、賞の選考委員が納得したのであれば、それは応募評論として成功したということである。

いずれにしても、彌榮浩樹の「1%の俳句―― 一挙性・露呈性・写生」は、俳句に興味があるかどうかに関わらず、一読すべき必読の評論である。「写生」ついての議論を深めるのに、これほど格好の素材はないだろう。



11/07/12 up
back