自然をだしにして自己を語るということ、その3。
(『斎藤茂吉歌論集』1977年:岩波文庫/630円)
>「自然」を表現するという場合、その「自然」とは何を指しているのか、ということは大きな問題である。例えば斎藤茂吉は「自然」をどのように考えていたのだろうか。
>岩波文庫『斎藤茂吉歌論集』を読んでいると、茂吉が「自然」について、和辻哲郎の言葉を借りながら次のように説明している箇所がある。
『私はここで自然の語を限定して置く必要を感ずる。ここに用ひる自然は人生と対立せしめた意味の、或は精神・文化などに対立せしめた意味の哲学用語ではない。むしろ生と同義にさへ解せらる所の(ロダンが好んで用ふる所の)人生自然全体を包括した、我々の対象の世界の名である。(我々の省察の対象となる限り我々自身をも含んでゐる)それは吾々の感覚に訴へる総ての要素を含むと共に、またその奥に活躍してゐる生そのものをも含んでゐる』かう和辻氏は云ふ。予の謂ふ意味の自然もそれでいい。
「短歌に於ける写生の説」(第四「短歌と写生」一家言)
>さて、和辻の「自然」観が、そのまま茂吉の「自然」観であるならば、自己の「写生」を説明するときに、「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。」という茂吉の説明は誤解を招くことになる。
>和辻にとっての「自然」は、表現する意志をもって対象に向かったとき、「自然」と「自己」とが一元化された「生」の息づくものである。そして、そのような「自然」を「写生」するというのならば、「実相に観入して自然の生を写す。」という言葉によって説明すれば足りる。しかし、あえて、「自己」という言葉を加えたのであれば、茂吉の「自然」観は、和辻の「自然」観と同じものであるとは言いがたい。もちろん、最終的には、「自然」と「自己」が合一、融合しているものを指しているのであるから、着地点は同様の世界を示しているものであろう。しかし、この差異は表現の問題に置き換えた場合、私にはとても興味深い。
>私がそのような細部にこだわるのにはいくつかの理由がある。その一つは、前回取り上げた高野素十の「写生」観、「自然」観に関係している。素十は、茂吉の「短歌写生の説」(ホトトギス第9回の漫談会に茂吉を招いて聴いた講演)に対して、次のような感想を述べている。
その言葉の中に実相に観入すると云ふ言葉がありますが、我々の目ざすところも結局は其処である。と言って毫も差支ないやうに思ふ。(中略)斉藤氏(ママ)に従へば主観も客観もないことになるのである。僕達も究極はさうなのであるが、その究極に這入る手段として客観写生をするのである。
「ホトトギス」昭和4年7月号
>素十は、茂吉の「写生」の説に対してその核心部分では共感し、自分たちの目指す表現世界の理想を見ている。しかし、その理想に到る方法の差異を「客観写生」という言葉によって説明しようとする。それは、どのように客観的になろうとしても主観を完全には消し去ることができないことを自覚した上での方法である。
>素十にとっての「自然」とは、「狭い意味での自然界――に起こり来る季節による変化」であって、それを心を無にして努めて客観的に眺めることにより、実相に観入しようというのである。それは、俳句という詩型の特性を生かしながら、「自己」をどこまでも消し去り、最終的には、「自然」と「自己」が一体となった世界を表現することを目指すことである。
>素十の「自然」観は、和辻の「自然」観と同じではない。しかし、素十が「客観写生」によって表現する世界は、和辻の言う「自然」へと到る。和辻の「自然」観を自己の表現の「自然」観として表現する場合に、あえて「自己」を「自然」に融合するなどという意識は不要である。
>しかし、俳句とは違い、「私」性が常に問題になる短歌の場合、この「自然」と「自己」の問題は容易に片づくものではない。素十が「自己」を無くそう無くそうと腐心しているとき、茂吉は「自己」を生かそう生かそうと腐心している。素十が茂吉に主観的な要素を強く感じたのはその点にあったが、それを詩型の差異として理解している。短歌と俳句の「写生」の差異を考える場合、茂吉と素十の「自然」観の比較と表現の差異は、とても示唆に富むものである。
>私の狭い読書範囲で言うことなので当てにはならないが、和辻の「自然」に茂吉よりも近い写生歌は、佐藤佐太郎の歌ではないだろうか。例えば次の歌などそのように思える。
連結をはなれし貨車がやすやすと走りつつ行く線路の上を |
『歩道』 |
07/12/03 up
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