藤原月彦の俳句と藤原龍一郎の短歌。

歌人の藤原龍一郎は、かつて藤原月彦という俳号で活躍した俳人でもある。私が藤原の俳句を読んだのは彼の短歌を読むよりも早かった。俳人の月彦が歌人の龍一郎と同一人物であると知ったのは、藤原の第1歌集『夢みる頃を過ぎても』が発刊された翌年ではなかったかと思う。

短歌と俳句を同時に創作することには多くの困難を伴う。その困難とは、どちらの作品がすぐれているのかという比較の問題から、創作者としての態度への言及に到るまで様々な形で表出する。

2つの詩型の構造的な差異を認識した上で自己の文学観に引きつけ、詩型の生理を有機的に活用した作品を創ることは、並大抵の努力でなし得るものではない。また、二つの詩型の間に表層的なレベルでのアナロジーが見出される場合、辛辣な批判の対象にもなりかねない。ましてや藤原のように、歌人と俳人の二枚看板で世に立つためには、豊かな才能はもちろんのこと創作者としての覚悟が常に求められたことだろう。

私が藤原の俳句に改めて目を向けたのは、去る6月21日に行われた「芭蕉会議の集い」で、「短歌と俳句」について話をする機会があり、その必要から月彦の俳句を読み直したからである。そのときには、時間の制約もあり、藤原の作品については紹介するだけに終わってしまった。そこで本稿ではそのときに話をしたかった内容をメモランダムとして残しておきたいと思う。

私には藤原月彦の俳句との初めての遭遇が未だに強烈な印象として残っている。また、月彦の俳句に対する熱意の籠もった言葉が、当時俳句の結社に所属していた私の心を鋭く貫いた。

月彦の言葉からいくつか抜粋してみたい。

夢と夢とのあわいのかそかな覚醒の刹那、狂気のように襲ってくる言葉の奔流。ぼくは、俳句形式というフレイの剣をとってたちむかい斬りむすんだ。その時飛び散った悪夢の破片こそがぼくの俳句作品なのである。
                    1975年12月刊第1句集 『王権神授説』 「後記」より

あらゆる芸術において、その分野を発展させ、稀有な作品を生み出すためには、真に秀れた才能を、ジャンルのうちにとりこむことが必要不可欠であり、また、多くの秀れた才能を魅きつけることができるかいなかが、ジャンル自体の運の度量ということになる。だとすれば、現代俳句は、あまりにも悲運なジャンルであり、その悲運さは、もはや致命傷となって、形式自身の息の根を止めにかかっているのかもしれないとさえ思う。
ぼくが俳句を書き、これからも書き続けて行こうとすることが、この傷を深めて行くことにはならないという保証はどこにもないが、せめて、知らないうちに首吊りの足をひっぱっていたというような愚は避け、常に意識的に俳句形式にま向っていたいとだけは思っている。
                          1981年8月刊第2句集 『貴腐』 「後記」より

俳壇的常識からいえば、全100巻の句集などとは、想像の埒外だろうが、この『魔都』はそんな矮小な固定観念に毒された読者を相手にする気はない。
現在、書き継がれている大河ロマンとしては、栗本薫氏のグイン・サーガ・シリーズや半村良氏の『太陽の世界』がすぐに思い浮かぶが、『魔都』もまた、小説と俳句という形式こそちがうが、同じ志を持って書き継いで行くことを宣言する。             1987年3月刊 『魔都第壱巻』 「あとがき」より

言葉の黄金郷をめざす――私の俳句の目的はこの一言につきる。言葉に興奮し、言葉に戦慄をおぼえ、言葉に精神を鼓舞される――あるいはまた、言葉によって、魂にえもいえぬやすらぎを与えられる――そんな言葉に出逢いたいから、そして、一人でも多くの人に、私が味わったのと同じ、興奮や戦慄や鼓舞ややすらぎを感じてほしいからこそ、今も俳句をつくり続けているのだ。(中略)
言葉を知り、言葉を畏れ、そして言葉を意のままにあやつる魔法つかいこそ本来の俳人の謂のはずだ。「俳句形式ではついに俳句しか書きえない――それに気づいてしまったことが、私の絶望であり誇りである」――かつて私は、このように書いたが、それはせめて自ら俳人と名のるための必要最低限の資格ではないかと思うのだ。
                      1988年7月増刊 「アサヒグラフ俳句入門」より



『王権神授説』は藤原が20代の前半に出版した第1句集である。この句集の「後記」の言葉に溢れる熱情と自負心には、早熟な文学青年特有の精神性が内在されているだろう。

第2句集『貴腐』の「後記」は、現代俳句の危機に根ざした言葉であるが、俳句の危機に真向かう真摯な覚悟が印象的である。

また、30代半ばで企てられた『魔都』100巻の構想には、私には想像すらできない、新しい俳句に向けての壮大なプロジェクトを成し遂げようとする強烈な意志が感受される。

そして、「アサヒグラフ俳句入門」の言葉には、俳句創作と俳人資格に関するマニフェストを高らかに述べる月彦の自己を恃む心の強さが表出している。

これらの言葉を読む限りは、20代から30代半ばまでの月彦には、俳人としての迷いが感じられない。『貴腐』の「後記」の言葉を除けば、他のどの言葉にも自己の俳句に対する自信が溢れているように見える。また、『貴腐』の「後記」にも、現代俳句の危機に対する救世主たらんとする思いが内在されている。

しかし、藤原は「アサヒグラフ俳句入門」に紹介された翌年に第1歌集『夢みる頃を過ぎても』を刊行し、その後俳句の創作は行わず歌人として現在に到っている。

その理由については、藤原自身が語っていることでもあり、ここで改めて紹介しようとは思わない。ただ、当時は歌人としてよりも俳人として有名であった藤原が、歌人としてのみ生きることを決意した背景には、容易には言葉にできない理由もあったはずである。

その点についてここであれこれと詮索するつもりはないが、短期間に多くの句集を上梓し、華麗なる文体の変容を見せた月彦が、その後、歌人の龍一郎としてのみ生きることについて、まったく興味がないと言えば嘘になる。

次に月彦の俳句を紹介する。

>>致死量の月光兄の蒼全裸

『王権神授説』

>>夏は闇母よりわれに正露丸

『貴腐』

>>モハヤナニモタノマヌ雪の夢ツキテ

『魔都第壱巻』 魔界創世記篇

>>紫陽花の雨の山口百恵頌

『魔都第貳巻』 魔性絢爛篇

>>冬の没陽は大団円か転生か

同上


月彦の句には体言止めが多い。それは、俳句形式による言葉の極北を目指す過程で必然的に選び取られたものであろう。いや、月彦の言葉に対して、俳句形式が必然的に機能した結果、体言止めの句が多くなったと言った方がいいのかもしれない。月彦の句を「狂言綺語派」あるいは、「言葉派」という名称によって括ってしまうのは容易だが、それでは何も説明したことにはならない。

月彦の句には、俳句という形式による言葉のコード化から自在でありながら、俳句の生理に基づいた詩的達成を成すというアンビバレントな課題が課せられている。それは、言葉と形式との妥協なき闘争であり、到達点の見えない形式との格闘である。

「俳句形式ではついに俳句しか書きえない――それに気づいてしまったことが、私の絶望であり誇りである」という言葉が象徴するように、俳句により「言葉の黄金郷をめざす」月彦には、厳然たる俳句表現のアポリアが見えており、また、それゆえに、そのアポリアを突き抜ける表現を目指して突き進んでゆく。その結果が現在残されている句であるが、それを栄光の跡と見るか、敗北の跡と見るかという二者択一には意味がない。

月彦の俳句創作の過程そのものを検証しつつ、月彦の俳句から見えてくる俳句の本質を分析すべきである。月彦が俳句を断念した意味を俳句自身に問い、月彦の俳句によるあくなき闘争を現在の時点で評価することが必要であると私は思っている。

その点をここに披瀝するだけの用意が今はないが、それについては改めて書く機会を持ちたい。

* * *


第1歌集『夢みる頃を過ぎても』に次の歌を見出したとき、これは俳人月彦への挽歌でもあるのではないかと思い、感慨を深くした。

>>言の葉をもてあそびたる罰なるや夢見る頃を過ぎてまた夢

>>原稿用紙の反古もてつくる紙飛行機アデン・アラビアまでとどかざる

>>詩にやせて思想にやせて生きたしと真赤な嘘の花ひらく宵

>>とりあえず「つらき日暮」と書きてのち言葉さがせどさがせどあらず

1989年刊第1歌集 『夢みる頃を過ぎても』 より


青春期の挫折と敗北感が濃厚なこれらの歌が、月彦への挽歌でもあると考えるのは、私の恣意的な読みに過ぎないかもしれない。しかし、俳句による理想の表現を目指した月彦の夢の跡が、これらの歌の言葉には籠もっているように思えたのである。

いずれにしても、現在も褪せることのない月彦の俳句の魅力は私を魅了する。


09/08/17 up
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