中川佐和子歌集『朱砂色の歳月』
(2003年11月:砂子屋書房/3000円)
>言葉がひらくものがある。それはふっと熱をおびて開花したり、柔らかく撓んだり、急激に冷めて凝固したりするのだ。読者はそこを入り口に描かれた世界にぐんと引き込まれるのだが、じつは言葉とはその向こう側に抜けるひとつの小窓であったのだとやがて気づかされる。中川佐和子の第三歌集『朱砂色の歳月』とは、そんな空間を多く抱えた一冊である。
角ひとつ曲がると体温あるごとく桜咲きおり薄明のなか
>路地を曲がると中空にほたりと桜がひらいている。芯の火照りがそのまま花弁を染めたような仄かな白だ。吐息のような花の内部をぼくは見たいと思った。しずかに花弁を押しひらく力が、昨夜のうちにこの装いを調えたにちがいない。かすかな体熱を感じる。桜花の量感をささえる枝先が〈私〉の内部で音をたてる。まだ、みな起きてくる気配はない。薄明の空気の緊まりのなかに、桜はきわやかに咲き誇っている。そんな想像力を喚起する一首であり、ぼくはそのことに満足する。
キッチンの床に転がる玉葱は夏の朝に恐き顔をす
>日常の何気ない風景がふと別の相貌をみせることがある。裏がわに隠されたもうひとつの顔があらわれるのだ。それは無意識の自我の投影かも知れない。あるいは、既知の不安がみせた一瞬の夢魔であるのかも知れない。あらゆるモノがあたり前にそこに在るという日常を、ぼくらは所与の現実として疑わずに来すぎたのではないか。
>顔などあるはずもない。床に転がる玉葱は意思なきモノとして無意味にそうして転がっているのだ、と左脳が言う。ちがうちがう、それは思考の論理がとり零した古い物語りのきれ端ではないかと右脳が応じる。その昔、路地の闇や土間の暗がりがもっていた物語りを、戦後の価値観は有用性や機能性の名のもとに忘却したのではなかったか、と。
若草の切手選びて人間は井戸かもしれぬと葉書に記す
>萌える若草の切手を貼りながら、ふと人間は井戸かもしれないと思ったのだ。おそらくぼくたちは、自身でも覗くことができないほど深い闇を抱えた井戸であるにちがいない。それは思索的な水脈へ通ずる井戸ではなく、業のような昏さを湛えた井戸である。いったい誰にあてた葉書だろう。視えてしまうとはこんなにも哀しいことなのだ。書くとは予見することだとヴァレリーは言った。そんなこと、わからず生きている方がどれほど楽か。井戸の底にうつる〈私〉の顔は、今でも昏く歪んでいるだろうか。
かなしみはひとりのものにすぎぬから少し陽気な傘さしてゆく
>誰しも悲しみを等分に分かちあってくれるわけではない。その錘はふかく胸底にしずめて、所詮ひとりで抱いていくしかないのだ。そうであればこそ、せめて〈私〉は「少し陽気な傘さしてゆく」のである。
>遠い春湖に沈みしみづからに祭の笛を吹いて逢ひにゆく――という齋藤史の歌を思い出した。明るさはその後ろにかならず悲しい影を引き連れているものだ。私はわたしの内部に口をあけた井戸の小暗さを誰にも告げず、いま顎をあげて歩きだそうとしている。
「朱砂色」は深紅色。辞書によれば、水銀と硫黄の化合物で、赤色絵具の主要鉱石の色らしい。枕草子には「胡粉、朱砂など色どりたる絵」とあるから古来から用いられているのだろう。感官ゆたかな力作歌集である。