子規のガラス戸(8)
休載にあたって

前回は、子規の歌にガラスを詠んだものが多いのに比して、俳句では非常に少ないことの疑問に触れ、「子規はもしかすると、モチーフによって、歌と俳句に遣いわけていたのではなかろうか。」と述べた。「次回はこの辺の疑問をもう少し掘り下げてゆければと思う。」と言って項を閉じた。

項を閉じたものの、実際に掘り下げるとなると、これはとても1ヵ月やそこらでできる仕事ではなかった。こういう場合、他の人だったらどうするのだろう、と私は思う。もちろん、子規が句作をはじめた明治18年あたりから、順繰りに検証して、それをつらつら、ここに書きとどめていくことは可能だけれど、それは、読み物としてどうなんだろう。何らかの結果や意味に到達した後であれば、または、その予感に則っているのなら、そういう地道な検証さえある程度は安心して読者に手渡すこともできると思う。でも今の時点で私はそういう自信を持てない。

思えば、道具の歌の話からはじまり、自分の興味に従って、ずいぶんに脱線したあげく、ある時期からは、この課題に向けて、かなりの引き延ばしを試みてきたのだけれど、結果としてずいぶん混乱してしまった気がしている。

ランプの歌について書き出した当初は、近代から現代にかけての過去に例のない急速な生活空間の変化、そのなかで誕生し消えていった生活道具を、歌人がどのように歌に詠んできたか。それらの道具の詠まれ方は時代によってどのように変化してきたか。つまりランプであれば、ランプに纏わる人の感覚の変化のようなものに興味があった。言い換えれば、同じモノであっても詠われている時代によってモチーフとしての役割は変化しているはずで、その役割に着目したいという思いがあった。

モチーフやその役割を考えてゆくことは、それらを扱う歌人の作家意識に触れることでもある。実際、書いていくうちに興味はそちらに傾くのだけれど、それを一つのモチーフから逆算して測ることはまた、とても危なっかしい作業でずいぶんはがゆい思いをした。

子規の「燈炉」について調べ始めた頃から、私はずっと子規のモチーフに対する作家意識の問題に踏み込みたいと思いつつ、「燈炉」から「ガラス」へと迂回しながら、ようやく前回まで辿りついた。けれども、実際にその作家意識に向き合おうとすると途端に混乱した。

私は子規の短歌と俳句におけるモチーフの扱いを探ることから、子規にとっての短歌と俳句の違い、というようなものを見極められないかと考えていた。俳句と短歌は近いようでいながら、実際に両方を手がけ、しかも同時期(厳密にはずれがあるが)に本気で取り組んだ人というのはおそらく子規しかいないだろうと思う。しかも、子規はその両者において近代における革新を行った。そして、不思議なことには子規以降の弟子たちは短歌作者と俳句作者にきれいに分断されている。以降ずっと両者が交わることはなかった。何故なのか。逆に何故、子規は両方を手がけることができたのか。

子規の革新の順序は俳句が先であったけれど、つくりはじめたのは短歌が先であった。ただその時点では短歌ではなくて、和歌であった。その後に俳句に興味を持ち、芭蕉や蕪村の句に出会う。明治25年ごろから俳句革新に乗り出す。短歌革新に乗り出すのは明治31年で、だいぶ開きがある。子規の事に当る速度から考えればかなりの開きである。

普通に考えれば、子規は俳句において発見した俳句革新の方法をその後に短歌にも敷衍したと考えるのが妥当のようだ。けれども、一説には、子規の言論活動の唯一の場であった、新聞『日本』の編集者には陸羯南をはじめとして和歌には造詣の深い人が多く、容易に短歌革新を謳い出しにくい環境であったことが、俳句革新と短歌革新に乗り出す時間的な差を生んだという話もある。どちらにせよ、同じ方法を俳句にも短歌にも当てはめたという点では、子規は俳句と短歌を地続きのものとして扱ったことになる。

以上のような前提からは、子規にとっての俳句と短歌の違いというものは非常に見えにくくなる。実際に子規にとって、両者の違いがあったのかどうか。あったとして、それはどれほど重要なものとして意識されていたか。本人に意識されずとも、後年の俳句作者と短歌作者を分ける何らかの原因として機能しているのか。モチーフの違いというところからだけで両者の違いに踏み込もうとするには、問題はデリケートすぎるように思えてくるのだ。少なくとも私は俳句、というものをもう少し知る必要があると思う。

そういうわけから、大変勝手ながら、こちらの連載はしばらく休載させていただければと思う。



10/12/27 up
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