雪舟えま第一歌集
『たんぽるぽる』を読む。
雪舟えま著『たんぽるぽる』(2011年4月:短歌研究社/1785円)
>先週の本連載で雪舟えまの朗読CD「臨月第3水曜日」を紹介した翌日に、雪舟えまの第一歌集『たんぽるぽる』を受け取った。私は雪舟が歌集を上梓していることを知らなかったので、ポストの中の本が雪舟の歌集だと分かって、何か不思議な感じがした。私が「臨月第3水曜日」を紹介した拙文を読んで贈ってくれたのだと思うが、それにしても翌日に届いているなんて、まるで初夏の風にでも乗って届けられたように思えた。そう言えばこの歌集を読むと、雪舟の歌の世界にとって、「風」が重要なキーワードの一つであることがわかる。
>『たんぽるぽる』には、次のような風が生き生きと描かれている。
>誕生会行って誕生日のひとにさわってきたと まるで風だね
>ごはんって心で食べるものでしょう?>春風として助手席にのる
>指なめて風よむ彼をまねすれば全方角より吹かれたる指
>「ちんちんが揺れてたさまを思い出せ春風にさみしくなるときは」
>だって好き>風にスカートめくられて心はひらくほかなきものを
>仏壇の蜂蜜白しばあちゃんは寝たままで風になる準備を
>目をとじてビッグイシューを掲げれば岬で風をよむ魔女になる
>ホクレンのマーク、あの木が風にゆれ子どもの頃からずっと眠たい
>嬉しくて風を殴った嬉しくてもう瘦せたいとおもうことなく
>蒟蒻を濁らせているなつかしい風をちぎって小鍋に落とす
>手のなかで軋むデラウエアあの人の深層筋を吹きわたる風
>こうやって風が詠まれている歌を抜き出してみると、雪舟のユニークな歌の世界が、言葉そのものとして私に届けられるようである。歌の世界が内在する意味は、その後から、まるで風を追うようにやって来る。私はこの歌集一冊を驚きと楽しさに充たされて読み終わった。
>この歌集には短歌が許容できるぎりぎりのイメージの提示に向けての実験性がある。それを意識的に行っているのか、自然にそこに向かっているのかは分からない。しかし、私が雪舟の歌を先鋭的と感じるのは、まずその点である。一首の短歌によって、提示できるイメージの量には限界がある。しかし、その限界はイメージを解放できる歌の作りによって拡大もするし、縮小もしてゆく。それは単にイメージを一首に多く盛り込めばいいというものではなく、また、イメージの凝縮も、そのイメージが自由になれる余地がなければ、言葉同士、表現同士が相殺してしまう。
>例えば次の歌を比較してみるとどうだろうか。
>るるるっとおちんちんから顔離す>火星の一軒家に雨がふる
>クリトリスほどのゆめありベランダで麻のバッグをがしがし洗う
>どちらも性器が歌に読まれた刺激的な歌である。しかし、率直に言って、一首目には感心するが、二首目には疑問を持つ。一首目は下句のイメージの提示が、上句の表現とぎりぎりのところで感応して、却って歌の世界に広がりを付加している。だが二首目は、「クリトリスほどのゆめ」という譬喩が、表現のリアリティーを担保できていないので、下句との感応が稀薄なものに終わっている。また、一首目の歌の初句の擬音語「るるるっと」は、草野心平の蛙の詩、「春殖」などを連想させ、その意味でもこちらの方が表現世界の広がりを感じる。このような感覚は男と女では違うものなのだろうか。それも興味の尽きないところだが、二首目のような計算違いは、この歌集には稀であることは言っておく。雪舟の詩的に研ぎ澄まされた言語感覚は、性別や年齢に関係なく読者を刺激し楽しませる。
>雪舟の歌は、愛に充ち、驚きにあふれ、寂しさが滲んで、終末感もあり、ちよっと残酷なところもある。私の好きな歌からいくつか引用してみたい
>目がさめるだけでうれしい>人間がつくったものでは空港がすき
>美容師の指からこの星にはない海の香気が舞い降りてくる
>東京の道路と寝れば東京に雪ふるだろう札幌のように
>気に入ったページは歯形つけるでしょ>これはいもうと>これはあたしの
>わたしの自転車だけ倒れてるのに似てたあなたを抱き起こす海のそこ
>逢えばくるうこころ逢わなければくるうこころ愛に友だちはいない
>体臭が年々つよくなっていくわたしをはやく見つけてほしい
>鮭の皮>知らない海に触れてきた皮食べるとき目にしずむ石
>おいしいの苦い光がおいしいのめだかは空にえさをまかれて
>夫のことわたしが消えてしまってもほめつづけてね赤いラジオ
>たんぽぽがたんぽるぽるになったよう姓が変わったあとの世界は
>こうやって引用してみると、他にも紹介したい歌がたくさんあり切りがない。しかし、先ほどの「風」の歌と、ここに引用した歌を読むだけでも、雪舟の歌の世界がどのようなものか、何となく感じてもらえるのではないだろうか。雪舟の歌では理解するというよりも、その歌の世界を感じてもらうことの方が先である。
引用した歌の中では、「体臭が」の歌は、他の歌とは傾向が少し違っている。このようなべたな感情表白の歌も私は好きである。
>一首目の歌は巻頭歌。また、最後の歌から歌集のタイトルは付けられている。この感覚は私にはとてもリアルに感じられる。この世に生まれたとき、名字に合わせて付けられた名前が、結婚によってどちらかの姓に改名させられるのは、まさに、「たんぽぽ」が「たんぽるぽる」になったようだ。
>さて、この歌集の帯文を書いているのは、雪舟と同じく「かばん」に所属している東直子である。この帯文がとてもいい。短い言葉で雪舟の歌の世界を見事に表現している。
>「どこにたどり着いても愛になる。なんて野蛮で、なんてやさしい言葉たち。この歌集がこの世にあることが、怖いくらいうれしい。」
>この帯文を読めば、私の紹介の言葉などもはや必要ない。
>そして、雪舟が北海道新聞に短歌を投稿していたときの選者、松川洋子の「跋文」も、雪舟という歌人を知る上でとても参考になる。松川が雪舟の初めての投稿歌、「君の眼は茶色のうさぎ一羽ずつ閉じこめている野生の小窓」を、若草色のシューレアリスムと講評したというのは、言い得て妙である。
>この歌集には章段ごとに、序のような短い詩と兎のかわいいイラストが描かれている。イラストは雪舟の妹の作画だという。最後に、章段の扉に書かれた序詩を一つ紹介したい。第7章の「22:22(ni-ni-ni-ni)」からである。
>ピアノの中には天の川が流れている
>二人はピアノの中に横たわり>内側から屋根を閉じた
>これもまた短歌とは少し異質な、雪舟のユニークな言葉の世界である。その他の序詩もとても面白い。序詩だけを続けて読むのも楽しい。
ぜひ多くの方に読んで頂きたい歌集である。
11/06/01 up
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